TOSHI TANAKA

 

人が波に乗ったのは、おそらくカヌーが最初だろう。それは、南太平洋の島々を移動する航海の中で 出会ったうねりに乗ったり、沖で釣りをした帰り、サンゴに砕ける波を横切ったり、という経験から始まったのだろう。それが、いつの頃からか、人は単に波の斜面を駆け下りる、スリルだけの為に、海に漕ぎ出るようになる。やがて、一つのスポーツとしての”波乗り”が、確立して行ったのであろう。そして、2020年、東京オリンピックの種目になった”サーフィン”とは、いつ頃、誰によって、どの様に、どこで"ブレイク"したのか? キーとなる時代と土地にスポットをあて、歴史をさかのぼる。そして、ブレイクが過ぎ去った後、そこには、サーフィンという枠を超えて、日本人の生き方そのものが、浮かび上がる。日本人が、本来持っていたアイデンティティとは?波乗りを通して、彼らから、学びとる事が出来るのではないだろうか。そして、日本が世界に誇る数々の”ブレイク”。今では、乗る事の出来ない壊されて行ったパーフェクトな”ブレイク”。Japanese Breakは、それらを含め、ドキュメンタリーとして制作した。

MOVIE STORY

 

TOKYO, DOWNTOWN

1960年代始めの東京下町にスポットライトを当てる。独自の方法で、国産初のサーフボードを作り上げた、東京の下町のサーフボードビルダーのストーリー。日本で活躍するシェイパー達、そしてサーフィンインダストリーのルーツが、ここにあると言っても良いだろう。サーフボードの材料も何もわからない彼らが、数々の失敗と試行錯誤を重ね、作り上げて行った、東京の下町のサーフボードブランドの数々。そこには、独特な文化を引き継いだ好奇心と、物を作り上げる根気強さ、器用さがいきづいている。自ら考えプロデュースし、作り上げ、販売するという、江戸っ子の心意気だ。そこには、高度成長を迎えた日本の新しいモノを見過ごせず、楽しむ事をとことん追求して行く、若者達の情熱が交錯する。ローカルビーチを持たない気軽さが生んだ、東京のサーフカルチャーの誕生を描く。

CHIBA, KATSUURA

その後、ボブ・ディランの”Blowin’ in The Wind”「風に吹かれて」がリリースされた1963年5月、一人の日系三世の若者が、ホビーのサーフボードを片手に抱え、羽田空港に降り立った。彼の名前は、タック カワハラ。日本では、まだサーフィンというものが、ほとんど知られて無い頃、タックが送った一通の手紙に同意し、これから日本の若者達が、このスポーツの虜になると確信し、その夢に投資した男がいた。実業家・米沢市兵衛だ。その二人が、数々の苦難を乗り越え、夢を叶え、誕生した マリブサーフボードのストーリーを描く。タックは、千葉・勝浦の 「たっとの鼻」と言うビーチに、「マリブ」と言う名前を付けた。故郷のカリフォルニアのマリブの波に、そっくりだったからだ。後に、世界大会のWCTも開催される事になる、メジャーポイントの誕生だ。勝浦のビーチに、タックは、米沢と共にビーチハウスを建てた。サーフィンのルールやテクニック、名称の解説等をを一冊の小雑誌にまとめて、若者達にサーフィンを広めて行った。さらに、サーフボードメーカー「米沢プラスチック」を設立する。当時、アメリカのサーフボード作りの最先端であった、分業制をいち早く取り入れ、日本の本格的な国産サーフボード「マリブ」を誕生させた。。波乗りをした事も無く、波乗りの板を作った事も無く、波乗りの楽しみも知らない米沢市兵衛達。 異国で自分の夢であサーフボードブランドを作り上げた、日系三世のタック カワハラ のストーリー。

HAWAII, WAIKIKI

一方海の向こうでは、辛い時代、サーフィンに関わって来た日系人達の、軌跡と功績のストーリー。サーフィンに関する話は、20世紀の初めから、ずっと語り続けられている。その中でもハワイは、最も古い歴史を持ち、神話に近い物語も存在する。ハワイの波は、20世紀の前半、50人足らずの幸運なビーチボーイ達だけが、乗っていた。それらの物語は、口承で伝えられている事が多く、カリフォルニアのサーフィンカルチャーの様に、文献にはあまり残されていない。 日本とハワイの関係は、今から150年前の1868年5月17日、「元年者」と言われる150人の移民が、サトウキビ耕地労働としてハワイへ向かったのが始まりだ。横浜を出航したサイオト号は、34日間の航海の後、6月20日、ハワイ王国に到着した。彼らの多くは横浜出身で、熱帯気候の太陽の下、農作業を行うことは不慣れだった。元年者の中には、契約を終えると、より多くの金を稼ぎ、より良い生活を求めて、プランテーションを去って行く者がいた。1913年、カラカウア通りに、日系人が経営する「アオキストアー」がオープンする。タバコから食品、ガソリンまで販売していた。8人兄弟の長男ハロルド・アオキが、1920年代、自らレッドウッドのサーフボードを削り、日系人で、最初にサーフィンをした人物の一人だと言われている。デューク・カハナモクも、アオキストアーの常連の一人で、ツナの缶詰がお気に入りだったそうだ。又日系一世は、ハワイ諸島の周辺に、沢山のツナがいる事を発見した。1900年代の初めに、和歌山県出身の漁師が、カツオ漁船を、初めて日本からハワイに乗り入れた。その後間もなく、日本から来た船大工によって、ハワイでも漁船が建造される様になり、その技術が、サーフボード作りにも、影響を与えた。1930年代、ワイキキのビーチボーイ達の間では、ホローのパドルボードが流行し始め、幾つかのパドルボードビルダーが誕生した。その中の一つに、カカアコで日系人が作った、ホローのパドルボードビルダーがあった。今まで、メディアではフューチャーされていない、サーフィン文化に関わって来た日系人を、取り上げている。登場人物の中の、既に鬼籍に入っている人達の家族や友人に、インタビューを重ね、どのようにして日系人が波乗り文化にかかわってきたのかを紹介する。